なぜリクルートは今なお起業家排出をし続けられるのかを考察する
6.なぜリクルートは今なお起業家排出をし続けられるのかを考察する
栃木県にあるその動物病院からは、県下を代表する繁盛病院院長が数多く輩出されています。
「なぜ数多くの繁盛病院の院長を生み出すことができたのか」、その理由を元院長の奥様に伺うと、「院長はなんでも勤務医にやらせて、ご飯も勤務医と一緒に食べる。勤務医は家族のような存在でした」という答えでした。
現在の動物病院でこんな労働環境の動物病院はもはやなくなったのかもしれませんが、この動物病院では勤務医は家族同然、だから一人前に巣立っていくまで、院長は労を惜しまなかったのではないでしょうか。
この家族関係は、言い換えれば、「徒弟関係」とも言えるのでしょうが、この動物病院から輩出された院長は、独立後も院長ご夫妻とはつながりを持ち続けて来たと聞きます。
栃木県のこの動物病院同様に、会社を辞めた後も会社との関係を持ち続ける会社があります。それが、株式会社リクルートです。
普通、会社を辞めた後、同僚や先輩との付き合いはあっても、会社や上司とはどちらかと言えば、縁を切りたいものです。しかしリクルートでは、会社との関係だけでなく、OB・OGとの関係も持ち続けている。そのため、退社とは言わずに「卒業」と呼んでいると聞きます。
その理由をリクルート元社員(卒業生)の経験談などから検証してみました。
1.リクルートの「社員皆経営者主義」が起業家を生み出して来た
リクルートは1960年、創業者江副浩正氏によって誕生した会社です。リクルートといえば、リクルート事件を思い浮かべる方も多いと思います。そのため、マイナスイメージを持たれている方もいるかと思いますが、この取材等を通じて気付くのは、「リクルートには起業家を育てる“リクルートらしさ”というものがあり、それが会社を離れたあとも起業家、あるいは経営のわかる人材として活躍する原動力になっている」という点です。
江副氏の著書(『リクルートのDNA』)によれば、リクルート出身の名だたる起業家には、初の民間出身・中学校校長となった藤原和博氏、NTT移動通信網で「iモード」の企画開発をした松永真理氏、マンション開発分譲のゴールドクレストの安川秀俊氏、USENの宇野康秀氏らがいます。(その後の起業家はネットで調べてみて下さい)。
リクルートOBの声をもとに江副氏の言う「社員皆経営者主義」がどういうものであったのか。PC制度導入時に同社に在籍していたリクルートのOGの当時の体験をみてみましょう。
2.ただ会社に長く居るだけではだめなんだ、と知った瞬間 河野初江氏(オフィス河野代表、一般社団法人自分史活用推進協議会代表理事)の証言
均等法が成立する前で、大卒女子の定期採用は一般的ではなく、多くの会社が大卒女子はすぐ辞める、どうせ長くは続かないと二の足を踏んでいた頃でした。私はそんな声に抗する気持ちもあり、辞めないで仕事を続けました。
めでたく入社10年目になったときのことです。総務から記念品が贈られることになり、同期の男性たちと一緒に総務部長を囲んでの昼食会に招かれました。正直言って誇らしい気持ちでした。
リクルートは男女同一賃金の会社。女性であっても仕事がある限り夜遅くまで残ってやり遂げる、決して女性だからと弱音は吐かない、そういう環境の中で、懸命に働いてきたのですから。当然、総務部長から労いの言葉がある、と思って昼食会に出ました。
ところが、総務部長のひとことに私は衝撃を受けました。労いではなく、「君たちは、この会社に10年居たことになるけれど何をしたの?」と言われたのです。私が夜遅くまで頑張って働いていたことはもちろん知ってのことです。
「そうか、それだけではいけなかった」「ただ会社に長く居るだけの自分になってしまうところだった」と気づかされた瞬間でした。
総務部長が言いたかったのは、「10年選手ともなれば会社の経営のために自分がどう寄与できているか、それが言える人でありなさいよ」ということだったのです。
各部門に大幅に権限が委譲されると同時に業績にも責任を持つPC制度が導入されて、会社の顔と言われてきた『月刊リクルート』もまた、費用を分担する各事業部門にとって、費用を払うだけの価値があるかどうかが問われだしていました。
そこで社内営業に力を入れ、編集費用を出してくれている事業部門のニーズを探り、事業戦略にあった広報計画を立てて提案をし、それを編集に反映する、といった働きかけを強めました。
すると、次々に各部門から要望が寄せられるようになり、いわゆるイメージだけの広報誌から、それぞれの事業部門の成長のために無くてはならない存在として位置づけられるように変わっていったのです。
会社は私の変化をよく見ていました。わずか1年で私は出版部という事業部門(PC)を任されるPC長(出版部課長)に登用され、『月刊リクルート』編集長に抜擢されたのです。
経営を意識して行動するようになってからは、社内や社内から多くの方が私を応援し、手を差し伸べてくれるようになり、自分の仕事がますます大きくやりがいのあるものになりました。
あの総務部長のひとことが無かったら、私の成長はそこで止まり、長く働いているだけの社員になっていただろうし、経営側の一員として付加価値を生む仕事をして初めて一人前なんだということもわからなかったし、付加価値を生む仕事の面白さも知らないまま終わったでしょう。
その後、私は30代半ばでリクルートを退社(それをリクルートでは卒業と呼ぶのですが)し、編集会社を興しましたが、経営のことがわかる編集者、経営にとって付加価値を生み出す広報誌が作れるということで、多くの経営者からダイレクトに広報誌について相談を受け、仕事を任されました。
経営の側にあって企業に利益をもたらす人間になるか、ただ労働の対価としてあてがわれた報酬を受け取るだけの人間のままでいるかでは、自分の人生の主役になれるか、なれないまま終わるかという、とてつもなく大きな差があります。
のんびりしていた私を揺り動かしてくれたリクルートの「皆経営者主義にもとづくPC制度」と、「それを生かして成長しろ」と気づかせてくれた総務部長の言葉に今も感謝しています。
3.チャレンジ精神を育てる、リクルートの仕組み
「超売り手市場」。この現象は、好景気の時に起こります。
新卒採用で学生が超売り手市場になったのは1980年代後半のバブル期でした。1990年のバブル崩壊後もしばらくはこの状況が続きます。
学生がどこに入社するのかの選択権を持っている時代ですから、企業は様々な対処をします。採用の理由だけで本社を銀座に移した企業もあれば、内定を出した学生が他社に行かないようにと海外旅行に連れ出した企業もありました。
今では「ありえない」と思われるかもしれませんが、これが当たり前だったのがバブル期でした。この動物病院業界は今がまさにこのバブル状態、学生、勤務医にとっては超売り手市場になっています。
そのため、勤務医を抱える病院の中には、「開業させないために手術は勤務医にはやらせない病院がある」というのです。(開業セミナーでの勤務医からの情報です)。
また、「他よりも高給にすることでうちのアピールをしたい」という院長もおられます。
症例経験を増やしたい、難しい手術をやってみたいと考えるのは、多くの動物たちの命を救いたいと思う獣医師にとっては当然の思いだと考えられますが、人材確保といった理由でチャレンジ精神やスキルアップしたいという思いを我慢しなければならないのは残念なことです。
開業理由として多くの勤務医が話すのは、「自分が思ったこと、やりたいことがやらせてもらえないから開業したい」と言います。
開業セミナーに参加される勤務医の中には、「開業の自信を付けたいので、手術経験を積める病院を紹介してくれませんか」と依頼してくる方も出始めています。
このチャレンジ精神は、開業するにしても、長く勤務医を続けるにしても、また、職場復帰するにしても、行動の原動力となるモチベーションです。ただ動物病院の場合、手術をやらせてもらえるかどうかとか、病院内の雰囲気は実際にその病院に勤め出してみないと分からないと言えます。
そのため、人材紹介 ベテリナリオは、こうしたミスマッチを無くすため、双方がマイナス情報を出し合うことが重要であると考えています。
スキル重視で転職先を希望している獣医師には、ベテリナリオは事業承継コンサル・メディカルプラザの院長とのネットワークを活かして、その動物病院の内情を把握した上で動物病院をご紹介しますので、入ったからのミスマッチが起きないようにできます。
また、高給重視で転職先を希望している獣医師には、給与については、限界はあるでしょうが、希望に合わせるように交渉することは可能ですので、ベテリナリオは自信を持って転職病院をご紹介できます。
4.何もしないより失敗したほうがはるかにいい、という考え方
一社員からPC長になれば、自分がやりたいことができるようになる反面、責任も増えます。河野氏のように、責任が重くなってもチャレンジしたいという気持ちに多くの人材を駆り立てたのは、どんな理由からだったのでしょうか。
その答えとして江副氏の著書からみえてくるのは、失敗を恐れるなという風土、それどころかむしろ失敗を推奨するような考え方が根底にあるということです。
江副氏は次のように述べています。
「赤字会社で将来黒字化が見込めない事業は早期に撤退して清算する。そこで大切なことは、失敗に対して寛容な組織風土である。赤字事業からの撤退パーティーでは周囲のみんなが“お疲れ様でした”と拍手をするようでなければならない」
6.人はどこまでも成長できる、だから「自ら挑戦し、自らを変えよ」
「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」
この言葉は、江副氏が高校の漢文の授業で習った『易経』の「窮すれば変じ、変ずれば通じ、通ずれば久し」から出た言葉であると著書で述べています。と同時に、この言葉は、江副氏が東大で教育心理学を学び、大きな感銘を受けたというC.ロジャーズの理論の影響も受けているようです。
ロジャーズは「人間は誰しも成長しようとする本質的なものを持っている」という考え方を心理学に持ち込み、「問題解決にあたっても当事者がきっと乗り越える力を持っていると信頼して任せる」という方法論を提唱した心理学者です。
江副氏は若き日に、この考え方に共鳴し、「人は本人の努力によって変わることができる。私も人との関りを深めて、自分を変えよう」と思った、と述べています。
リクルートでは、退社を卒業と呼び、OB・OGは「リクルート卒業生」としての付き合いが続くといいます。これは他の会社ではあまり聞かない、リクルートの大きな特徴の1つであると言えます。
なぜそのような関係性が退社後も続くのでしょうか。
それは、会社で働いていたり、辞めたりするときの動機が一般企業と違ってリクルートでは「自分の成長のために」ととらえられているからではないかと考えられます。
長期雇用が前提であった時代には多くの場合、転職や独立の動機は会社の待遇や人間関係などに対する不満が原因であり、途中で辞める人は異端視されてきました。
けれどもリクルートでは、大手をふって卒業と言って去っていきます。個々の成長を促す創業者の言葉がマインドとして浸透しており、また80年代早々に導入されたPC制度等によって会社に居ながらにして経営者としての経験を積んでいるからであると思われます。
それまで常に“社会で通用する人間になれ”と言われて育ってきていたので、時が至れば卒業することは私にとってきわめて自然なことでした。社内の人もみな、そうか!そういう段階にきたんだな、新しい世界で頑張れ、そこでもっと成長しろという感じで受け止めてくれて、笑顔で送り出してくれました。
リクルートではリクルートを卒業したあとも皆、共に成長し続けるという意味で仲間なんです」(河野氏)
リクルートは創業61年を超えて、今なお多くの起業家を輩出しながら成長し続けています。
江副氏は「成功する起業家の20ヶ条」で、自らの経験に照らして新たな事業に若いうちに挑戦する意味を次のように語り、このような言葉で、若くして独立起業する人の背中を押しています。
「若くかつ就職しないで起業すること。人はその人がその時までに経験した延長線で物事を考えがちである。サラリーマンから見る経営者とその実像には大きなギャップがある。また、年をとってからではやり直しは難しいが、若ければやり直しがきく」。
河野初江氏(オフィス河野代表、一般社団法人自分史活用推進協議会代表理事)
【こうの・はつえ氏 プロフィール】
1974年から1986年までリクルートに在籍。リクルート初の市販情報誌『就職情報』創刊メンバー、出版部『月刊就職ジャーナル』編集を経て、『月刊リクルート』編集長。その後、オフィス河野を設立して独立開業。現在は自分史活推進協議会代表理事として、自分史・社史の企画編集から自分史を普及させるための活動も行なっている。