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やはり一般企業でも「修行期」を経験してこそ起業家は育つと言える

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7.やはり一般企業でも「修行期」を経験してこそ起業家は育つと言える

※この記事は、メディカルプラザが2021年に全国のほぼすべての院長向けに発行した経営情報誌から、就職・転職、そして復職を目指す獣医師(勤務医)に重要な情報をピックアップして加筆・リライトしたものです。

 コンサルタント西川芳彦は、500人以上の勤務医を開業医にして来た経験から、「20代でどんな働き方をしているかが重要である」と言います。
 最近では、ゆとり、休日や給与を重視する傾向が強くなっています。そんな獣医師には企業病院や公務員が就職・転職や復職の選択肢になるのでしょうが、この獣医師という職業のやり甲斐や面白さに気づき、チャレンジ精神を持って開業を成し遂げた勤務医は、すべて、20歳代はとんでもなく忙しく、過酷な労働環境で自分のスキル、ノウハウを磨き上げて来ています。

 このことから言えることは、「20歳代でどこまで粉骨惜しまず、とことん働いたかによって、獣医師としての人生が決まる。これは昔も今も変わらない」ということです。

 

 このコンサル西川の言葉は、この動物病院業界に限って言えることではありません。
 すべての職種において、20歳代の体力があって少々無理ができる年齢で厳しい労働環境の中で自分がどこまで頑張れるのかを知っておくことは、40歳代、50歳代になって活きてくると言えるからです。

 では、一般企業の中で多くの起業家を生み出し続けているリクルートでは、20歳代、30歳代ではどんな働き方をして来たのかについて、リクルート元社員(卒業生)の経験談を通して検証していきます。

1.決して最初から起業家だったわけではない

 リクルートの創業者・江副浩正氏は、ごく普通のどこにでもいる大学生であり、特に起業家を目指していたわけではなかったようです。大学生になったものの時間はあるがお金がない(これも普通の大学生と同じ)。
 「襖や障子の張替え、引っ越しの手伝いの仕事が多く、1日240円が相場で日雇い労働者と同じ。……家庭教師の仕事は週2回各2時間で1ヵ月2500円、割のいいバイトだった」
 (江副浩正著『かもめが翔んだ日』、以後著書と表記)でした。

 そんなとき、目に飛び込んできたのが「月収1万円、東京大学生新聞会」の掲示でした。
東大新聞の広告取りの仕事で、コミッション制。だから月収1万円が確実にもらえるというわけではありません。
 しかしここで、江副氏の非凡なところが発揮されます。東大生の採用に苦戦していた大手企業に「会社説明会の告知広告を出すように」と営業をしていったのです。「大学新聞に大手企業の会社説明会の告知広告」という新分野を開拓したことで、江副氏はなんと当時サラリーマンの初任給が約1万円の時代に月20万円近い収入を手にしたと言います。

 同級生の多くは鉄鋼・造船・化学・銀行など、高く評価されていた企業に就職をしていきました。それでも江副氏は安定した会社に入ることには見向きもせず、大学新聞の広告を売る自分の会社を作りました。

 ただ、江副氏は決して最初から起業家として生まれついていたわけではなかったようで、「学生時代のアルバイト経験をもとに仕事を始めたため、ベンチャー企業のはしりと見られたこともあったが、創業時には旺盛な起業家精神はなかった。サラリーマンにならず、自由とお金の両方を手にしたいと思っていたに過ぎない」(著書)とも言っています。

 

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株式会社リクルート

2.修行期、最初の関門を克服し、経営者になっていった

 会社を始めた当初は、資金が潤沢にあって始めた会社ではないので、事務所の起き場所にも苦労したようです。

 「敷地40坪余り。エレベーターも空調もない小さな4階建てのビルの、梯子段で登った屋上にあるブリキとトタン屋根の物置小屋。
 それを3つに仕切った1つで、4畳半ほどの広さ。家賃月額7000円。
 2つしか置けない机と椅子は、近くの古道具屋で買った。夏に夕立が降ると雨漏りがする」(著書)

 創業半年後に、『株式会社の作り方』という本を読み、定款を作ったとあります。発起人は大学時代の友人たちで、やっと捻出したのが資本金60万円。会社を経営する知識も、会社を作るお金もあったわけではなかったのです。
 そんなとき、転機が訪れます。アメリカで就職情報ガイドブック『キャリア』という本が配られていることを知り、そこから日本でも採用情報を載せた『企業への招待』(のちの『リクルートブック』)を出そうと思い付きます。

 さっそく営業に乗り出した江副氏でしたが、企業の反応は大学新聞の広告営業のときと全く違っていました。
 「どんな会社が参加するのか、顔ぶれを見てから結論を出します」と冷たい反応ばかりだったのです。

 大学新聞の広告には好意的だった各社が、冷たい反応しかしないことに江副氏は驚きます。
そして、それまでは自分の信用ではなくて、大学新聞への信用で広告が売れていたのだということに気が付きます。
 江副氏が作ったばかりの、誰も聞いたこともないような会社が発行元の媒体に、大手企業の人事部長はお金を出そうと思わなかったのです。

 広告が売れなければ、印刷会社に支払うお金もできません。資金のないところで始めていたので、資金はすでにぎりぎり。
 とはいえ、すでに広告を出してくれている企業もあるので、そうしたお客様のためには学生が就職活動を開始する時期に間に合うように出さないといけない、というのっぴきならない事態に追い詰められます。

 江副氏はそんな状況から逃げませんでした。
 寝る間も惜しんで、銀行に頭を下げ、印刷会社に頭を下げ、広告を出してくださる企業に頭を下げ……と頑張り抜きました。
 こうしてぎりぎりのところで新しい求人媒体『企業への招待』の発刊にこぎつけます。
 よほど嬉しかったのでしょう。江副氏はその創刊号を本郷のアパートに持ち帰り何度も読み返し、それを「枕の下に置いて寝た」と著書に書いています。

 「自由とお金の両方が欲しい」ということで会社を始めた江副氏ですが、自分のつくった商品を世に出すという試練を克服し、それを乗り越えることで本物の経営者としての一歩を踏み出したのでした。

 これら若き日の江副氏の歩みをみると、試練を一つひとつ克服し、経営者としての「修行期」を潜り抜けていったことがわかります。

 決して手を抜かない、約束したことは必ず実行する、そのためには寝る間も惜しんで働く。それを愚直に実行することで、経営者になっていったのです。

 1974年に入社し、86年に卒業し、その後独立したリクルートOGの河野初江氏が垣間見た起業家としての江副さんはどうだったでしょう。間近にみた創業者の姿を聞いてみました。

 

3.創業者自身が、仕事を通して成長する人であった

編集部:江副さんは当代を代表する起業家として知られていますが、実際には自分は必ずしも生まれついての起業家でない、と思っていたようですね。

河 野:世間で思うような天才肌の起業家ではなく、人知れず努力して、道を見つけていく、ということで時代を代表する経営者になっていった方だと思います。

 ご本人の著書にも「自分は完全な人間ではないので自分の弱みを補ってくれる仕組みが必要だと思った」という言葉が出てきます。

 P・F・ドラッカーの本を読んだり、松下幸之助さんの経営に学んだり、と懸命に努力をしていました。

 そして、今こういう本を読んで学んでいるところだ、といったことを社員にもよく話しました。

 

編集部:自ら学んで成長する、その姿を隠さなかったということですか。

河 野:そうです。情報公開や情報の共有はどこの企業も大事にしていると思いますが、江副さんの考える情報公開は一味違っていました。

 今、会社にはどれぐらい借金があって、毎月どれぐらい返済しないといけないといったことや、自分が今迷ったり学んだりしているプロセスまで社員に伝える踏み込んだものでした。

 

 業績に関わる数値を日々伝えた上で、経営者の自分もこういう努力をしていて、迷いながら一歩一歩歩んでいるんだということを社員に隠さずよく話したので、社員も共感をもってその話を聞きました。そうするうちに次第に私たち社員も、経営者と同じ目線でものを考える習慣が身についていったということがあると思います。

 

編集部:リクルートの社員の皆さんは労を惜しまず、本当によく働くと聞きます。なぜ皆さん、そんなに働くのでしょう。

河 野:経営者と同じ目線でものごとを捉える習慣が身に着くと、なぜそれを自分がやらなければいけないのかがわかってその仕事をするようになるので、思わぬ力が出ます。やらされ仕事と、これはやるべきだと思ってやるのとでは、同じ仕事をするのでも雲泥の差があります。

 

 私も若かりし日には帰宅時間を気にせず、夢中になって仕事をしたものです。身体を壊すようなことがあってはいけないし、当然自己管理が前提ですが、若いからこそできるし、知識や経験をどんどん吸収して伸びるということもあります。

 頑張って達成した業績にみあった評価と報酬を受け取ることができて、それがまた励みになりました。若き日にこれは自分にとって大事なことだと思える仕事と出会い、自分の能力や体力に限界を設けず限界にまで挑戦したことは自信につながりました。

 

 また、仕事を通して自分が成長すること、そのことで世界が広がっていくのを実感できたことは、その後、生きていく上で大きな力になりました。

 多くの社員がリクルートで生き生きと働いているのもまた、これは自分にとって成長の場、という実感があるからではないでしょうか。

 

4.新人の自立心を引き出し、その気にさせる風土

編集部:リクルートでは若いうちから大きな仕事を任されるようです。いわば権限移譲ということが徹底されているようですが、社員が若いうちから嬉々としてこれに取り組むのはなぜでしょう。

河 野:最初から自立心に富んだ人ばかりではないと思います。私がそうだったように上司や先輩の働きかけによって気づきが促され、自立し、任される喜びを知っていくということがあるのではないでしょうか。

 

 新人の私に任された仕事は、リクルート初の市販情報誌『週刊就職情報』の記事ページの編集でした。といっても週刊誌の編集など知りません。上司に「週刊誌はどうやって作るのですか」と聞きました。
 すると「俺だってわからないよ」と言われて、『マスコミ電話帳』を渡されたのです。世の中にはこんなにたくさんの週刊誌の編集長がいるのだから、作り方を教えてもらいなさい、というわけです。これには驚きました。「それはなんだか恥ずかしい」と私の中の常識が抵抗するわけです。
 それでついぐずぐずやらないでいたら、「新人の君だからできることなんだ。上司の僕がそれをやったら恥ずかしいだろ」と言われたんです。それで納得し、マスコミ電話帳の上から順番に電話をしていきました。

 次々断られましたが、ある大手の新聞社の週刊誌編集長が会ってくれることになり、丁寧に記事づくりの基本を教えてくれました。
 「会って教わってきました」と報告したら、それを指示した当の上司も驚いていましたが、私にとって、この体験は大きな意味がありました。
 それまで持っていた自分の常識が、いかに小さな世界のものだったかを知ったからです。
 若いからこそできるんだよと言われ、そのとおりやってみたことで、私の持っている小さな常識が覆えされたのです。

 そうした気づきを与えてくれる上司や先輩が身近にいたことで、私の自立心が芽生え、何でもまずはやってみようという自分に変わっていったと思います。

編集部:なるほど。でも新人でありながら、そこまで任され切ることに負担はなかったのでしょうか。

河 野:入社したてのときにはまだ、どこかに先輩や上司を頼る気持ち、甘える気持ちがありました。
 これもまた新規開発事業での新人時代の体験ですが、そうした甘えに気づかせてもらう出来事がありました。
 いよいよ編集の概要も決まって、編集プロダクションに外注しようとなった最初の打ち合わせのときのことでした。担当の私だけでなく、男性上司も同席しての初会合です。
 私は、お茶を淹れるために席を立とうとしました。とたんに上司に制されました。
 「こら、今ここで席を立つな。担当はお前だ。お茶なら俺が淹れる」といってその上司が席を立ったのです。正直言って、やられた、と思いました。

 私の中に全て相手の話を聞いて、全て自分でやらなくてはいけなくなるのを恐れる気持ちがあったからです。  
 どこかで上司に甘えたい、逃げたいと思っていた自分がいたのです。
 その一言で私の性根がすわりました。これは自分の仕事だと本気で受け取め、以後は逃げることなく記事編集にまい進しました。

 新人が作るのですから、大人の目から見れば稚拙なところもあったはずです。ベテラン社員から時に「あのレベルでいいの」といった声も出たはずです。けれども「一年目の社員が必死で頑張っているんだぞ」ということで、そうした声はすべてその上司のところで葬られ、信頼して任せたからには、ということで存分の私のやりたいようにやらせてくれました。

 そうした環境で育てられたことで私の中に当事者意識が宿り、「任されたからには」と創意工夫しながら仕事をする自分になっていったと思います。

 

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株式会社リクルート エントランス

5.若き起業家の修行の場の必要性と動物病院業界の未来

 創業者のいた時代のリクルートを知っているOGの河野氏の証言から、皆経営者主義やPC制度、権限移譲、当事者意識の醸成といった制度が、表面的なものではなく、本当に生きたものとして現場に定着し、運用されていたこと、そして仕事を通して成長し、リクルートでの修行期を経て独立していったこと、そこに人材輩出起業リクルートらしさというものがあることが分かります。

 

 動物病院業界でもまた、リクルートのように若いうちにとことん頑張る時期を経て独立開業する若者が多くいます。
 またさらに勤務医から多くの開業医を育てた動物病院が、昔も今も多く存在しています。
 その動物病院から開業した院長の中には、勤務医時代を振り返って「まさに修業と表現した方がいいくらいでした」と言う院長もおられます。

 その厳しく過酷といってもいい状況のなか、多くの手術件数を経験してスキルやノウハウを磨いたからこそ、自分に自信がもて、独立へと踏み出せたという院長もまた多いようです。
 そうした勤務医が修業できる場が多くあったことで、その後開業医がどんどん生まれ、小動物臨床という新たな市場が生まれて、今日の動物病院業界の発展につながってきました。

 これまで動物病院業界では若き獣医師がオーナー経営病院において、もっとも成長する若い時期に多くの手術件数を経験してスキルやノウハウを磨き、実力を身につけた人が開業独立することで患者さんの信頼を得て伸びてきました。

 また若き獣医師に修行の場を提供することでオーナー経営病院は獣医師を確保し、後継者を育成してきました。

 獣医師の多くが独立開業を選ばず、もっとも成長する修行期を経ることなくサラリーマン化していくことは、後継者不足から閉鎖に至る動物病院が出てくることにもなりかねず、患者さんにとって身近にあった動物病院が姿を消していくことにもつながりかねません。

 

 リクルート事件後の江副氏は、著作活動に積極的に取り組まれていたようで、2007年に出された著書『リクルートのDNA』(角川oneテーマ21刊)の冒頭・はしがきで次のようなことを述べておられます。

 

 「かつての日本には「起業家精神」の旺盛な多くのベンチャー企業の勃興があった。

 この「起業家精神」こそが、経済を活性化させ、日本経済を繁栄させた。

 しかし現在は、ベンチャー社長の代名詞のように「ヒルズ族」と言う言葉も生まれ、若き起業家たちがマスコミを賑わす一方で、ニートフリーターと称される若者が増加して、社会問題化している。

 私の経験を伝えることで、無気力の代名詞のように言われているニートやフリーターの中から何人かでも若き起業家が輩出すれば、望外の喜びである」と。

 

 若き起業家が生まれることこそが日本経済に活力を生む、と江副氏は述べていますが、動物病院においても独立開業を目指す起業家(開業医)が生まれなければ、業界全体の活力は生まれてこないでしょう。

 若い獣医師が自主独立という目的意識をもって厳しい修行期間に果敢に挑戦し、それを乗り越え、独立開業へと至る道筋を描けるようにしていくことが、これからの地域診療を担ってきたオーナー経営病院にとってますます大事になってきているように思われます。

 

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株式会社リクルート 本社ビル
【このテーマの検証にリクルート卒業生の起業家・河野初江氏に調査と編集等でご協力を頂きました】
河野初江氏(オフィス河野代表、一般社団法人自分史活用推進協議会代表理事
【こうの・はつえ氏 プロフィール】
 1974年から1986年までリクルートに在籍。リクルート初の市販情報誌『就職情報』創刊メンバー、出版部『月刊就職ジャーナル』編集を経て、『月刊リクルート』編集長。その後、オフィス河野を設立して独立開業。現在は自分史活推進協議会代表理事として、自分史・社史の企画編集から自分史を普及させるための活動も行なっている。

 メディカルプラザの人材紹介業 ベテリナリオは、これからの動物病院の二極化に対応できる繁盛病院を転職したい勤務医にご紹介していくとともに、女性勤務医の長期雇用についても院長への啓蒙を行い、現場を離れている女性勤務医の復帰、復職などについても積極的に取り組んでいかなければならないことと考えております。